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  • 人は、なぜ役目を終えたものを手放せないのだろう?

    「人は、なぜ役目を終えたものを手放せないのだろう?」

    長距離ランニングをしながら大愚和尚の一問一答を聞いていました。

    その動画では、40代の男性からの相談が紹介されていました。

    25年勤めた会社で仲間だと思っていた人たちとの関係が崩れ、半ば自主退職する形になったそうです。その際に「99%の社員はあなたのことを嫌っている」と相談者が言われたと動画内では語ってました。

    そこで大愚和尚はお釈迦様が唱えた「筏の例え」を出しました。

    大海原を渡るために、人は筏を作ります。
    苦労して海を渡った後、その筏には当然愛着も湧くでしょう。
    しかし、役目を終えた筏まで背負って陸を歩く必要はない。
    そんな教えでした。

    その話を聞いて、私にも少し似た経験があると思いました。やはり私も執着があるし、消化できてない部分もあります。

    それはきっとそれでも楽しかった日々、彼らを仲間だと思ってた日々がありそれが苦しめるのではないのかと思います。
    繋がりがしがらみに変わるイメージです。

    ただ、大愚和尚は幸運なことに新しい岸へと移動出来たのだから、今までの経験だけを持っていけば良いと言っていました。

    確かに今までその大海原を渡った経験は確実にあります。前を向いてその経験だけを持っていこうと私自身も思えました。

    まだ完全に手放せたわけではありません。それでも、これまでの経験だけを持って、新しい海を渡っていこうと思います。

  • 人は、なぜ続けていることに愛着が湧くのだろう?

    「人は、なぜ続けていることに愛着が湧くのだろう?」

    そんなことを引き続き愛猫の定期診断の待合いをしながら考えてました。

    その継続に対しての習慣性に愛着が湧くのではないかと思います。
    習慣化するには始めたキッカケがあり、そこには思いが乗ります。

    例えば私は夜ランニングやブログ、地域活動を習慣としています。
    以前は一日のほとんどを仕事に使っていた自分を見直したことがきっかけです。

    一つの物事に全力投球することが大事な時もありますが、視野が狭くなる危険性もあります。
    そのため、仕事を1日の70%の中では全力で頑張り、30%はプライベートを充実させるようにしています。

    そういう思いや考えがあり、継続に愛着が生まれてるのだと思います。
    だから、何かを続けることに迷った時は、始めた時の気持ちに一度戻ってみるのもいいのかもしれません。

  • 人は、なぜ一日の終わりに身体を動かしたくなるのだろう?

    「人は、なぜ一日の終わりに身体を動かしたくなるのだろう?」

    そんなことを愛猫の定期診断の順番待ちをしながら考えてました。

    人間も身体を持つ以上、ある程度は身体を動かす時間が必要なのではないかと思います。
    運動自体は朝しても良いし夜でも良いのだと思います。

    私が夜にランニングする理由を考えた際に3つの利点があるからです。

    ①美容的な観点から日光を避ける夜を選んでいます。ここが一番大きな理由でもあり、紫外線対策を考慮してます。

    ②仕事の終わりであれば1日の風呂に入る回数が1回で済みます。もし、朝ランニングした場合、出社前に汗を洗い流すために1回、仕事終わりに1回と計2回体を流す必要性が出てくるので、効率があまり良くないように感じます。

    ③一日の出来事を整理できることです。私の場合は、走りながらその日の出来事を振り返ることで、頭が少し静かになり、その後の睡眠にも入りやすく感じます。

    私にとってランニングは、身体を鍛える時間であると同時に、一日の思考を静かに片づける時間なのかもしれません。

  • 人は、なぜカフェに味以外のものを求めるのだろう?

    「人は、なぜカフェに味以外のものを求めるのだろう?」

    そんなことを考えながら夜のランニングをしていました。

    先日、高校時代の友人と古民家カフェについて話してました。

    友人が大学時代に聞いた話では、寺社仏閣では敷地内を移動する過程そのものが、日常から非日常へ切り替える仕掛けとして機能していたそうです。

    確かに私は古民家カフェを好み足を運びます。
    私は、味そのものよりも、その空間を求めて足を運んでいるのだと思います。

    ここのカフェは面白いシステムで原則1時間まで中学生以下は入店禁止となっています。そのため、店内は静けさと心地よいBGMに包まれていて、自然と読書が進みます。

    私にとってカフェは、コーヒーを飲む場所というより、日常から少し離れて自分の思考を整える場所なのかもしれません。

  • 人は、なぜ自分なりのルールを作りたくなるのだろう?

    「人は、なぜ自分なりのルールを作りたくなるのだろう?」

    そんなことを考えながら甍という喫茶店へ向かっていました。

    マイルールがあった方がルーティン化しやすいのではないかと考えます。
    イチローが長く高いパフォーマンスを維持できた理由の一つに、ルーティンの徹底があったのではないかと思います。

    物事がうまくいく再現性を持てれば、いわゆるその道のプロに近づけるのだと思います。

    そんな私自身のルール付けの導入だけ説明します。
    前提として私は営業という人とコミュニケーションを取る仕事をしてます。
    会社で決められたプロダクトで多くの売上を作ることが営業の本分と置いた時に物事の捉え方や柔軟性が重要になります。
    そのため、営業中に100%のパフォーマンスを発揮できるように設計しています。

    ルールの中身に関してはここで説明すると本分から外れてしまうので、別の回でまた書いてみようと思います。

    私にとってルールとは、自分を縛るためのものではなく、迷わず目標に近づくための道しるべなのかもしれません。

  • 「人は、なぜ自分を整えたくなるのだろう?」

    「人は、なぜ自分を整えたくなるのだろう?」

    そんなことを考えながら行きつけの甍という喫茶店へ散歩ながら向かってました。

    タイトルで「人は」書いておいてなんですが、整えたくなるかはかなり人によるものだと思ってます。

    私は整えることに外観と内面のどちらにも良いものとしてるからです。

    「健全な魂は健全な肉体に宿る」ということに繋がってます。

    外観的には身なりが整っていれば信頼と好感を持たれやすくなることがある。

    少なくとも見た目で苦労することは少しでも減らそうという考えです。

    内面はブログを書いたり小説を読む。サウナでととのうのもそうですが、自分の思考を整理しています。

    こうやって人と会話する時に感情に揺さぶられないようにしています。

    アドラーはこの世の悩みのほとんどは人間関係に起因すると言われてます。

    そのため、私は悩みが起こりにくい状態をつくるように整えてるのかもしれません。

  • 人は、なぜ制限がある方が楽しめるのだろう?

    「人は、なぜ制限がある方が楽しめるのだろう?」

    そんなことを考えながらカプリチョーザでパスタを食べてました。

    制限に価値があるという考え方になったのは本当に小さなきっかけでした。
    私は営業職という仕事柄、お昼はコンビニで買ったものを車内で食事をしてました。
    そんな私は無類の麺類好きで毎日のようにコンビニで麺類を買って食べてました。

    そんなある日気が付きました。
    そのパスタを食べるという行為が幸福で行ってるものではなく栄養を摂る行為に下がってると。

    そこから至福な時間は制限があるから色づくものだということが私の中の一つ大きな価値観となりました。

    だから私は、我慢そのものを悪いものだとは思わなくなりました。
    我慢は楽しみを遠ざけるものではなく、楽しみをもう一度輝かせるための余白なのかもしれません。

  • 人は、なぜ片づけてから休みたくなるのだろう?

    「人は、なぜ片づけてから休みたくなるのだろう?」

    眉毛サロンに向かう道中でそんなことを考えながら歩いてました。

    自分自身で置き換えた時にやり残しに抵抗が大きいことが理由にあります。
    スマホで例えた時に広げすぎたブラウザやアプリを閉じるイメージです。
    脳内にやりかけのタスクがあるとずっと引っかかることを週次で整理しています。

    ここが引っかかってしまうと週末遊ぶ、休むのにタスクが引っかかってしまうと勿体無いので私は片付けるのだと思います。

    私にとって片づけることは、頑張るためではなく、休むための準備なのかもしれません。
    やり残しを閉じておくことで、ようやく週末を週末として楽しめる。
    だから私は、休む前に片づけたくなるのだと思います。

  • 人は、なぜ昔からの友人に未来を語りたくなるのだろう?

    「人は、なぜ昔からの友人に未来を語りたくなるのだろう?」

    そんなことを考えながら高津駅行きのバスに乗っていました。

    昨日、友人に飲みながらゆくゆくの人生の終着点を語ってました。

    私が語った友人は高校からの付き合いで
    一緒に馬鹿なことも沢山してきたし、人生の岐路も話したりする仲で今回も心境の変化があり話しをしてました。

    私は「終わり」に対しての畳み方を最近よく考えるようになりました。

    自論になりますが、人生の目的がはっきりとしたいまは昔と違い考え方に一貫性を持つようになったように感じます。

    物事の目的の決め方はその人の生い立ちや性格もあるので、自分がやりやすい考え方を持つことが大事なんだと思います。

    その友人には自分自身、何か遺言みたいなものを少し残したいと思って話したのかもしれません。

    たまには友人に未来のことを語るのも悪くなかったなと思います。

  • 人は、なぜ老いを恐れるのだろう?

    人は、なぜ老いを恐れるのだろう?

    そんなことを、川崎駅の三三㐂というつけ麺屋でつけ麺を食べながら考えていました。

    人は努力によって向上することができます。

    知識を身につけたり、経験を重ねたり、人との関わりの中で考え方を深めたり。

    けれど、その一方で老いという不可逆な変化もあります。

    どれだけ努力をしても、時間そのものを止めることはできません。

    私は、人の魅力は年齢そのものではなく、年齢を重ねる中で何を積み上げてきたかとのバランスで決まるのではないかと思っています。

    例えば、38歳の私も何もしなければ、少しずつ体力や見た目は変化していきます。

    だから私は、自分なりにアンチエイジングを意識しています。

    ・平日の夜はデトックスウォーターを飲む
    ・ランニングをする
    ・風呂上がりにフェイスマスクをする
    ・年に一回ボトックス注射を打つ
    ・夕食後から次の食事まで16時間ほど空ける

    こうして外見や体力の衰えを少しでも緩やかにしながら、仕事で新しいことに挑戦したり、ボランティアをしてみたり、人と会って話したりしています。

    老いによって失われていくものがある一方で、経験によって増えていくものもある。

    私は、その両方を含めて人の魅力なのではないかと思っています。

    では、人はなぜ老いを恐れるのでしょうか。

    もしかすると、老いることで自分の魅力が損なわれてしまうと感じるからなのかもしれません。

    私は、人にはそれぞれ必ずその人なりの良さがあると思っています。

    ただ、その良さは存在しているだけでは、必ずしも周囲に伝わるとは限りません。

    その人の佇まいや行動、言葉、経験。

    そういったものに乗ることで、その人らしさは魅力として外へ香っていくのだと思います。

    だから私自身が恐れているのは、老いることそのものではないのかもしれません。

    自分の中にある良さや魅力が、うまく人に届かなくなること。

    それを寂しいと感じるから、私は老いを恐れているのかもしれません。

    けれど、若さを保つことだけが老いへの向き合い方ではないとも思います。

    年齢を重ねることで失うものがあるなら、その時間の中でしか得られないものもある。

    若さにしがみつくのではなく、老いを身に纏いながら、その年代でしか持てない魅力を育てていく。

    私は、そんな歳の重ね方をしていきたいと思っています。