人は、なぜ節目に墓参りをしたくなるのだろう?
そんなことを考えながら、母のお墓参りへ向かうバスの中にいます。
お墓参りという行為は、不思議なものだと思います。
亡くなった人と、以前のように言葉を交わすことはできません。
こちらから話しかけても、返事が返ってくるわけではない。
それでも人は、節目になるとお墓へ足を運びます。
人とのコミュニケーションは、本来お互いの気持ちによって成立するものだと思います。
けれど、お墓参りは少し違います。
こちらの気持ちだけでも成立する。
会いたいと思う。
近況を報告したいと思う。
手を合わせたいと思う。
その気持ちだけで、私たちは会いに行きます。
私自身のことで言えば、母が生きていた頃は、生活の中心にいると言ってもいいくらい母のことが好きでした。
亡くなった今でも、その気持ちがなくなったわけではありません。
もちろん、こちらが勝手に話しかけに行くことを考えれば、これはエゴなのかもしれません。
それでも私は、母のお墓に行くと近況を話します。
私はいつも手を合わせながら、
「母はいま、あっちで何をしているのだろう」
「この話をしたら、母はなんて言うだろう」
そんなことを考えます。
母ならこう言うだろうな、と想像できる時もあります。
でも正直、まったく想像がつかない時もあります。
それでも、母ならどう思うだろうと問いかけることで、自分の気持ちを見つめ直しているのかもしれません。
もしかすると、お墓参りというのは亡くなった人のためだけではなく、自分の心を整理するためにするものでもあるのだと思います。
自分が行き詰まった時。
何かを報告したい時。
人生の節目を迎えた時。
答えが返ってくるわけではなくても、
「あなたなら、どう思う?」
と問いかけたくなる相手がいる。
人との関係は、会話ができなくなった瞬間にすべて終わるわけではない。
心の中にその人がいる限り、形を変えて続いていく。
だから人は、人生の節目に、大切だった人へ会いに行きたくなるのではないでしょうか。
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