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  • 人は、なぜ節目に墓参りをしたくなるのだろう?

    人は、なぜ節目に墓参りをしたくなるのだろう?

    そんなことを考えながら、母のお墓参りへ向かうバスの中にいます。

    お墓参りという行為は、不思議なものだと思います。

    亡くなった人と、以前のように言葉を交わすことはできません。

    こちらから話しかけても、返事が返ってくるわけではない。

    それでも人は、節目になるとお墓へ足を運びます。

    人とのコミュニケーションは、本来お互いの気持ちによって成立するものだと思います。

    けれど、お墓参りは少し違います。

    こちらの気持ちだけでも成立する。

    会いたいと思う。
    近況を報告したいと思う。
    手を合わせたいと思う。

    その気持ちだけで、私たちは会いに行きます。

    私自身のことで言えば、母が生きていた頃は、生活の中心にいると言ってもいいくらい母のことが好きでした。

    亡くなった今でも、その気持ちがなくなったわけではありません。

    もちろん、こちらが勝手に話しかけに行くことを考えれば、これはエゴなのかもしれません。

    それでも私は、母のお墓に行くと近況を話します。

    私はいつも手を合わせながら、

    「母はいま、あっちで何をしているのだろう」

    「この話をしたら、母はなんて言うだろう」

    そんなことを考えます。

    母ならこう言うだろうな、と想像できる時もあります。

    でも正直、まったく想像がつかない時もあります。

    それでも、母ならどう思うだろうと問いかけることで、自分の気持ちを見つめ直しているのかもしれません。

    もしかすると、お墓参りというのは亡くなった人のためだけではなく、自分の心を整理するためにするものでもあるのだと思います。

    自分が行き詰まった時。
    何かを報告したい時。
    人生の節目を迎えた時。

    答えが返ってくるわけではなくても、

    「あなたなら、どう思う?」

    と問いかけたくなる相手がいる。

    人との関係は、会話ができなくなった瞬間にすべて終わるわけではない。

    心の中にその人がいる限り、形を変えて続いていく。

    だから人は、人生の節目に、大切だった人へ会いに行きたくなるのではないでしょうか。

  • 人は、なぜ80点の日にも意味があるのだろう?

    人は、なぜ80点の日にも意味があるのだろう?

    そんなことを、お風呂に入りながら考えています。

    突然ですが、いま私は夏季休暇中です。

    せっかくの連休なので、休みの間にやりたいことを大まかに決めて、少しずつ実行しています。

    今日の予定は、家の掃除をして、ケルヒャーで洗浄し、やりかけだった仕事も終わらせること。

    結果として、仕事は一通り終わり、掃除も進みました。

    ただ、ケルヒャーでの洗浄までは追いつきませんでした。

    そんな時、ふと、

    「今日は80点くらいかな。」

    と思いました。

    では、80点の日には意味があるのでしょうか。

    私は、振り返って検証できるからこそ意味があるのではないかと思っています。

    極端な話、30点でも50点でもいいのです。

    重要なのは、あらかじめ立てた計画と、実際にできたことを比べられること。

    夏季休暇という大きな予定から、一日ごとの予定へと少しずつ細分化しておくことで、自分が何に時間を使ったのかが見えやすくなります。

    こういう話をすると、私がかなり几帳面な人間だと思われそうですが、実際はどちらかというとかなり大雑把な性格です。

    ただ、目標の立て方については、自分の性格を考慮した上で少し工夫しています。

    それが、

    「スタートとゴールだけを決める。」

    という方法です。

    その道中をどう進むかについては、かなり自由にしています。

    私の場合、大雑把なくせに計画を立てたがるところがあります。

    そして、細かく計画を決めすぎると、その通りにいかなかっただけで挫折したような気持ちになることがありました。

    そこで、計画そのものに「あそび」を持たせるようになりました。

    目的地だけは決める。

    でも、その途中の道は自由に選ぶ。

    そうすると、多少予定がずれても、全体として前に進んでいればいいと思えるようになります。

    だから今日も、ケルヒャーまで終わらなかったから失敗なのではなく、

    「今日は80点。残り20点は明日に回そう。ただし、明日も100点の中に収まるように再調整する。」

    そんなふうに考えています。

    人によって、続けやすい計画の立て方は違うと思います。

    細かく決めた方が安心する人もいれば、大きな方向だけ決めた方が動きやすい人もいる。

    大切なのは、100点を取り続けることではなく、

    自分なりに点数をつけ、次の日に調整できること。

    80点の日があるからこそ、明日の100点を考えることができる。

    そんなふうに、少し余白を残しながら日々を過ごしていければいいのではないでしょうか。

  • 人は、なぜ一人の時間でも充実できるのだろう?

    人は、なぜ一人の時間でも充実できるのだろう?

    そんなことを、溝の口からの買い物帰りに考えていました。

    私自身、もともとは一人でも楽しめるタイプでした。

    その後、人と過ごす時間が増え、そして今はまた、一人で行動する時間も増えています。

    どちらも経験したからこそ、最近こう考えるようになりました。

    私にとって、人と過ごす時間はアウトプット。
    一人で過ごす時間はインプットなのではないか、と。

    人と話すことで、自分が考えていたことを言葉にする。
    相手の反応を通して、自分の考えをもう一度見直す。

    一方、一人の時間には、本を読んだり、考えたり、新しいものに触れたりすることができます。

    私は、このインプットとアウトプットのバランスが、人間性を少しずつ深くしていくのではないかと思っています。

    昔の私は、インプットにはかなり力を入れていました。

    本を読んだり、一人で物事を深く考えたりすることは好きでした。

    ただ、アウトプットについては、あまり大切にしていなかったように思います。

    特に私の場合、物事の捉え方や考え方、哲学や文学に触れることで、新しい発想が生まれることがあります。

    けれど、それを実際の日常生活の中で試してみるには、人と会い、話し、関わるというアウトプットが必要になります。

    頭の中で考えているだけではわからなかったことが、人との関わりの中で初めて見えてくることもあります。

    そして、人と関わったからこそ、また一人になって考えたくなることもあります。

    そう考えると、一人の時間と人と過ごす時間は、どちらか一方が大切なのではなく、行ったり来たりするものなのかもしれません。

    では、人はなぜ一人の時間でも充実できるのでしょうか。

    私の場合は、次に誰かと関わるためのインプットや準備ができるからなのだと思います。

    一人で考え、自分の中を整える。
    そして人と関わり、そこで得たものをまた持ち帰る。

    その繰り返しが、少しずつ自分という人間を作っていく。

    今は、そんなふうに考えています。

  • 人はなぜ変わっても自分でいられるのだろう?

    人は、なぜ変わっても自分でいられるのだろう?

    こんなことを考えながら、溝の口のモスバーガーでカフェラテを飲んでいます。

    大きな出来事があると、自分まで別人になったように感じることがあります。

    いろいろな経緯や内容は省略しますが、私自身、8年間所属していた部署と絶縁するような形になった経験があります。

    私の人生の中でも、かなり苦しい経験でした。

    自分に非がなかったとは思っていません。
    深く反省したこともありますし、今でも悔いていることがあります。

    一方で、相手への怒りや失望がきれいに消えたわけでもありません。
    今でも対面で話すことを想像すると身震いするほどで、私の中には傷として残っています。

    それでも、時間が経って気づいたことがあります。

    考え方の根幹までは、変わっていませんでした。

    むしろ、あれだけ傷ついたあとでも残っていたからこそ、それが自分にとって本当に大切なものだったのだと思います。

    私には、

    「どんなに傷ついても、人を傷つけない。」

    という、自分なりの核があります。

    もちろん、完璧にできるとは思っていません。
    怒ることもありますし、失敗することもあります。

    ただ、その方向だけは見失いたくない。

    今振り返ると、今回の出来事を通して変わった部分もあります。

    特に、「課題の分離」はかなり意識するようになりました。

    もともと知っていた言葉ではありましたが、今回の出来事が起こるまでは、どんな本を読んでもいまひとつしっくりきませんでした。

    相手の感情や選択まで、自分が背負う必要はない。
    自分にできることをしたら、その先は相手に委ねる。

    今の私は、

    「助けを求めてきた人には、できる範囲で手を差し伸べる。」

    という、シンプルな結論にたどり着いています。

    だから私は、今回の経験によって自分を捨てたというより、

    自分の核を守るために、生き方を変えた。

    ということなのかもしれません。

    人は変われます。

    でも、変わることは別人になることではない。

    自分だけが持っている信念に、経験から得た知恵を少しずつ加えていく。

    そうやって人は、変わりながらも自分でいられるのではないでしょうか。

  • 人はなぜ変われるのだろう?

    人は、なぜ変われるのだろう?

    武蔵小杉へ向かうバスの中で、そんなことを考えていました。

    一言で言うと、人は変わる必要性を感じた時に変われるのではないかと思います。

    私自身の話をすると、幼少期から中学3年生までは引っ込み思案で、極力口を開かないような人間でした。

    特に中学時代は部活動にも所属せず、友達もいませんでした。

    高校へ入学する時、初めて「変わる必要性」を感じました。

    人とコミュニケーションを取れないまま大人になることに、不安を覚えたからです。

    高校では自分から人に話しかけるようになりました。

    ただ、その反動だったのか、人を見下したり、悪口を言ったりすることも増えてしまいました。

    人と話せるようにはなりましたが、今度は別の弱さが顔を出したのです。

    それでも、36歳までは自分を変えようとは思いませんでした。

    転機になったのは、37歳の時に母が亡くなったことでした。

    人生を振り返った時、初めて自分の人間性と向き合いました。

    「このままの自分で、もし何かを成し遂げたとして、本当に一緒に喜んでくれる人はいるのだろうか。」

    「私は、これまでずいぶん自分本位に生きてきたのではないだろうか。」

    そんな問いが、自分の中に生まれました。

    それ以来、私は「人のために生きる」ということを一つのテーマにして、人と接するようになりました。

    人は、なぜ変われるのだろう?

    その答えは、変わろうという明確な意思を持てた時だからなのだと思います。

    そして、その意思は誰かに与えられるものではなく、自分自身が「変わりたい」と心から思えた時に初めて生まれるものなのかもしれません。

  • 人はなぜ正解を探してしまうのだろう?

    人は、なぜ正解を探してしまうのだろう?

    そんなことを、二ヶ領用水沿いを歩きながら考えていました。

    私自身も以前は、随分と正解を求めるタイプの人間でした。

    なぜ当時、正解を求めていたのだろう。

    そう考えた時、正解が出ないと、ずっと「グレー」の状態に置かれるからではないかと思いました。

    これは、これまでの日本の文化や教育にも起因するように思います。

    間違ったことをしたら、ごめんなさいをする。
    やっていいことと悪いことを、きちんと判断する。
    テストでいい点を取る。
    競争で勝つ。

    皆さんも一度は、こうしたことを言われた経験があるのではないでしょうか。

    もちろん、それらはとても大切なことです。

    ただ、正解を求めるという行動は、それらの副作用でもあるのではないかと思います。

    私自身、冒頭でお話しした通り、白黒をつけたがる人間でした。

    ただ、社会の中で人と関わっていると、正解だけでは感情に向き合えないことを知りました。

    人の感情を含めて考えると、時にはグレーや保留が必要になる場面があります。

    正解を求めることは、ある意味で自分の感情を楽にする選択なのかもしれません。

    でも、人生にはすぐに答えを出さなくていいこともあります。

    白黒をつけないからこそ、見えてくる景色もある。

    昔の私は、正解を探し続けていました。

    でも今は、グレーのまま時間に委ねることも、一つの答えなのだと思っています。

  • 人は、なぜ謝るのだろう?

    人は、なぜ謝るのだろう?

    溝の口のTEO-TEO LIMITEDでうみたてたまごプリンを食べながらこんなことを考えてます。

    謝るということは、自分の非を認める意思表示なのだと思っています。
    かなりシンプルな話だと思ってます。

    ただ、その後に引きずる必要はないと思います。
    私は昔俳優の古田新太さんがフジテレビの僕らの時間で「失敗したら反省する必要はあるけど、その後引きずる必要はない」というようなことをお話しされてたのが結構印象的で本当にそうだなと思います。

    失敗に対して引きずるというのは時間軸が現在ではなく過去で生きてしまってることになります。

    私たちは過去ではなく、現在を生きています。

    だから大切なのは、未来へどんな種を蒔けるか。

    その積み重ねが、自分の歩く道になるのだと思っています。

    そして、相手が許すかどうかは、相手が決めることです。

    謝ることによって確かに関係性が凪に戻ることもあるでしょう。
    でも、その期待で謝るのではなく、あくまでも一つの精算として謝る。そしてそれを許してもらえなくても受け入れる。これで謝るという行為は完了するのではないかと捉えてます。

    その先の答えは、相手に委ねたいと思っています。

  • 人は、なぜ役割を求めるのだろう?

    人は、なぜ役割を求めるのだろう?
    渋谷でスリランカのカボチャカレーを食べながら考えてます。

    それは役割が自分の存在意義を繋ぐと思うからです。
    組織の構造上ある程度仕方ない部分があると思います。
    組織が人間だとしたら、私たちメンバーが人体で言う頭、手足、内臓の何かの役割を果たすわけです。
    法人とはよく言ったものだなと思うわけです。

    戦略を考える頭

    サービスを維持し、より良いものへと育てる手。

    サービスをより広める訴求する足

    私で言うと営業なので、いまの例えで言うと足になるわけです。

    そして冒頭のなぜ役割を求めるのか?
    「組織に必要とされなくなることを恐れるからではないでしょうか。」

    一方で、長く組織から必要とされ続ける人もいます。
    それは唯一無二の存在。この人にしかできないものを組織が捉えたら、組織での生存は成功と見て良いと思います。

    役割に関してはその時々で組織がどこに配置するかは組織が考えるから私たちが拘る必要はあまりないのです。
    組織も当然生存していかなければいけないのだから。

    いろいろと組織について書きましたが、
    今回役割をテーマにしてる手前で書いたにすぎません。
    そもそも組織に固執する必要もそもそもないと思っていて世の中で何かに貢献していればこれが役割なのです。
    ボランティアしてもいいし、道に落ちてる空き缶を拾って捨てたって役割なので

  • 人は、なぜ期待してしまうのだろう?

    渋谷へ向かう田園都市線の中でそんなことを考えてます。

    自分の努力を、誰かに認めてもらいたいからではないでしょうか。

    例えば私自信のことで言うと
    美容に気を配ってます。
    例えば、
    仕事終えてランニングしたり
    寝る前にフェイスマスクを付けたりと
    最近はエラボトックスを打ったりと
    それに気を使っている。

    対人に対しては
    人への伝え方をその人のカタチに合ったものに変換をして伝えたり自分の立場を考えて手を差し伸ばす範囲を考えたりそれなりに努力をしてます。

    それらを認めてほしいという承認欲求が期待という言葉で被さってくるのだと思います。

    ただそれだと他人が認めないと永遠にずっと苦しいことにある日気が付きました。

    だから、こういう期待を人に置かないようにすることが大事なのかなと思います。

    私であれば、美容も人への配慮も「人と接する上でのマナー」と考えるようにしたら、かなり気持ちが軽くなりました。

    その努力に何かの感情が必要なのであれば、
    せっかくであれば、期待よりも感謝を増やしたい。

  • 人はなぜ比べるのだろう?

    人はなぜ比べるのだろう?
    武蔵小杉からのバスの中でこんなことを考えてます。

    ただ、自分自身これにかなり悩まされていました。
    そこである一定の対処法まで持ち合わせてるけど、上手くいってないというのが現在地です。

    人はなぜ比べるのか?
    の答えはその対象の相手に恐怖心や生存本能から比べてしまうことがあると思っています。
    これは実は認めたくないことがほとんどだと思いますが、まずはそこを認めるところがスタートラインだと思ってます。

    それでここから難しいところが
    健全な比較と不健全な比較があるんじゃないかということです。

    健全な比較はこの比較が刺激になり切磋琢磨できる。所謂漫画でいうライバルといったところでしょうか。

    不健全な比較は一言で言うと「隣の芝生が青い」という考え方です。
    こうなると相手のことをろくすっぽ知らないのに悪口、影口を言ったりとなります。

    昔、私も後者の不健全な「比べる」をしてました。こういう人間の最後は手痛いしっぺ返しが必ず何かしらのカタチで返えってきます。

    これが良くも悪くも因果応報なのだと思っています。

    因果応報は悪い意味で使われることが多いですが、本来は善い行いにも、悪い行いにも結果が返ってくるという意味です。

    そして、それがいつ返ってくるのかは誰にも分かりません。

    「桃栗三年、柿八年」という言葉があるように、芽が出るまでの時間はそれぞれ違います。

    だから私は最近、

    人と比べるより、自分がどんな種を蒔いているかを大切にしたい。

    今日蒔いた種は、明日芽が出るかもしれない。

    十年後かもしれない。

    でも、いつか返ってくる。

    だからこそ、自分が蒔く種だけは大切にしたいと思っています。